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黄八丈物語

その一    その二    その三

八丈は24m ?!

黄・樺・黒の三色を用いた八丈島特産の草木染めの絹織物を「黄八丈」と言っていますが、「黄八丈」とは元来黄色を主とする縞または格子柄の着物用絹織物を総称する言葉でした。

「八丈」とは、もともと一疋(2反)の長さを8丈(1丈は約3m)に織り上げた絹織物の呼び方で、古くは11世紀の『新猿楽記』に「美濃八丈」、15世紀はじめの『庭訓往来』という本に「尾張八丈」の語が見られます。

しかし、おそらく黄八丈が八丈島の特産品として江戸で珍重されるうちに、八丈島で織られる絹織物が「黄八丈」と呼ばれるようになりました。

厳密には、茶色を主としたものを「鳶八丈」、黒を主としたものは「黒八丈」といいます。

物産品から島名が

江戸時代の国学者本居宣長の『玉勝間』という本に、

「神鳳抄という書物に、諸国の御厨(神社の領地)より大神宮に奉る物の中に、八丈絹幾疋という表現が多く見える。したがってこの絹はどこの国からも産出したのである。伊豆の沖にある八丈が島というところも、昔この絹を織りだしたので島の名にもなったのに違いない……」

とあります。

1疋が8丈の絹織物を産出する島だから八丈が島と呼ばれるようになったというのです。特産品がそのまま島の名前になったことになります。
 

本土勢力にねらわれる
この島が良質の絹織物を産するところだったので、室町時代から本土の勢力が目をつけ支配の手を伸ばします。

関東管領上杉氏、小田原北条氏、相模の奥山氏、三浦氏などがこの絹を求めて争いました。

『八丈実記』に「昔は誰が主君であるかを気にしなかったので、国の人が来ると女性は競争で絹を織ってこれを餞別にするのが自慢だった。」とあります。

海のシルクロード
慶長4(1604)年、徳川幕府の直轄地になると、黄八丈は年貢として納められ、それは明治42(1909)年に地租が物納から金納になるまで続きます。

元和6(1620)年には年貢として上平黄紬500反と決まりましたが、その後の検地や制度改革で次第に増加し、天保10(1839)年には704反余りとなりました。

それ以外に上納品の予備や島の人が食糧や生糸の購入に充てた「過納分」、また江戸の商人を通して売った「売反物」などを合わせると、実に1000反近い「黄八丈」を生産していたことになります。

島の経済はまさに黄八丈によって、そしてそれを織り出す女性たちの手によって支えられていたのです。


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(C)ITO Hiroshi